大木歯科医院 津波避難タワー

三重県鈴鹿市の沿岸部にある大木歯科医院(鈴鹿市南長太町)が隣接所有地に津波避難タワーを設置しました。鉄骨造りで120人収容の施設です。1階3.5m、2階7.5mで、自家発電機、物品引き上げ用ウインチを備えています。この地区は、大規模地震による津波浸水が1~2mと予想されています。鈴鹿市の津波避難ビルは29施設となりました。 (令和3年4月21日 愛宕公民館)

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愛宕公民館 五月人形武者飾り Warrior doll

 

愛宕公民館エントランスで五月人形武者飾りを展示しています。地域の人から愛宕公民館に寄贈していただいたものです。 a warrior doll that is displayed in the Boy’s Festival of Japan.  ( 愛宕公民館 令和3年4月11日)

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2021年4月11日 | カテゴリー :

歴史講座「愛宕地域の歴史」/ 近鉄名古屋線軌間拡幅工事記録映画

愛宕公民館歴史講座 令和3年3月16日 ① 愛宕地域づくり協議会(愛宕公民館)が情報・写真収集して編集したホームページ「愛宕の歴史」を歴史講座として解説しました。岸岡山古墳群、伊勢街道絵図、鈴鹿海軍航空基地、祭礼・伝統行事、懐かしい写真など、愛宕地域の歴史をプロジェクター・スクリーンを使って紹介。 ② 近鉄が名古屋線の伊勢湾台風復興と軌間拡幅工事を行った工事記録映画(昭和34年 40分)を視聴。 「伸びゆく近鉄・名古屋線軌間拡幅工事の記録」 近鉄は名古屋線の広軌化を昭和33年から計画し準備を進めていたところ、昭和34年9月伊勢湾台風により名古屋線は甚大な被害を受けました。しかし、台風による水没区間災害復旧を機に、名古屋線80km標準軌化を一挙に完工する事業を完了し、62日間で全線復旧、広軌化を成し遂げました。「伸びゆく近鉄」は半世紀以上も前に作られた工事記録映画ですが、近鉄の歴史を知る貴重な記録映像です。記録映像DVDは歴史講座で使用することで近鉄から借用しました。

愛宕の歴史 【 目 次 】

愛宕の歴史 【目次】 企画:愛宕地域づくり協議会 編集:鈴鹿市立愛宕公民館
1 愛宕地区の移り変わり
     1-1 古代~中世 1-2 江戸時代 1-3 伊勢街道 1-4 戦後の愛宕地区 1-5 愛宕地区の区画整理
2 愛宕小学校と周辺地域の公共施設
   2-1 愛宕小学校  2-2 三重県農業試験場  2-3 鈴鹿市立体育館  2-4 愛宕公民館
3 鈴鹿海軍航空基地
4 愛宕地域の祭礼・伝統行事
    4-1 江島神社  4-2 春日神社 4-3 地蔵堂 4-4 菅原社  4-5 愛宕神社
5 産業・交通
    5-1 白江野用水  5-2 伊勢型紙  5-3 昔の田植え 5-4 近鉄
6   昭和天皇の鈴鹿市行幸
7 懐かしい写真
* 参考文献・資料
  問い合わせ:鈴鹿市立愛宕公民館 電話059-388-5909 
   ≪ホームページ画像の無断転載・頒布を禁じます。≫
  <制作:令和3年2月>

 

愛宕の歴史 【1】愛宕地区の移り変わり 1-1 古代~中世 

【1】愛宕地区の移り変わり 1-1 古代~中世 

岸岡町の南に続く丘陵地は、旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代、そして中世城跡を含む複合遺跡となっています。古墳、古窯、集落跡など確認されています。海岸近くは弥生時代の遺跡が分布しています。かつて岸岡山を中心に50基ほどの古墳群があったとされていますが、現在は現存22基、消滅18基(1号墳は調査の結果、古墳でなかったため欠番)となっています。

愛宕2号墳から銅鏡「七鈴鏡」がしました。径11.8㎝。鈴鏡(れいきょう)は古墳時代後期に製造された銅鏡で、7個のうち4個が欠損し3個が付設しています。振ると良い音がします。 25号墳・27号墳では家形埴輪が出土しています。平成9年の公園管理用道路建設のための調査では、弥生後期の竪穴住居跡33棟が発掘されています。

 中世城址の岸岡城跡は、古墳を利用して作られており、城主佐藤中務は神戸氏の配下で高岡城主の山路弾正とともに神戸六奉行の一人でした。

愛宕の歴史 【1】愛宕地区の移り変わり 1-2 江戸時代 1-2-1 大名の領地

1-2-1 江戸時代 大名の領地 (伊勢国絵図)
江戸時代の大名の領地は、幕府が公称していたのは「領分」で、「藩」の呼称は明治時代から使われました。
玉垣村、肥田村、土師村は津領、矢橋村は神戸領、柳村は旗本保田(やすだ)領と一部神戸領、岸岡村は亀山領と一部旗本保田領、江島村は旗本小笠原領(柳村の一部)と距離に関係なく支配が入り組んでいました。

 

愛宕の歴史 【1】愛宕地域の移り変わり 1-2 江戸時代 1-2-2 幕末・明治初期の神戸城

1-2 江戸時代  1-2-2 幕末の神戸城  <元神戸藩城地ノ図(三重県所蔵)>

小藩である神戸藩は、本田忠統が入部した江戸中期享保17年(1732)には町屋戸数582軒・人口2,520人、武家屋敷40軒余武士150人余の小さな城下町でした。  (参考:「三重県史通史編近世2」 p.127)  明治2年(1869)6月藩籍奉還により、神戸藩主は知藩事に任命され、神戸城内に神戸藩庁が開設されました。明治4年(1871)7月廃藩置県により神戸藩は神戸県となり知藩事は免職となり、旧知事は9月東京へ移住しました。明治4年11月神戸県は廃され、安濃津県に統合され、明治5年三重県に改称されました。明治9年渡会県と合併して現在の三重県となりました。(参考:「鈴鹿市史3巻」p.36 「三重県史資料編近代1」p.118 )   絵図「元神戸藩城地ノ図」には建物玄関先に旧字で「県庁」の文字が書かれています。元知事私邸はこの建物奥(北側)にありました。明治4年11月渡会県に合併されるまでの4か月間神戸県庁が城内二の丸に置かれていたときの図です。元知事私邸が撤去されているため、知事が去った後の明治4年の神戸城図と思われます。(鈴鹿市史3巻p.38の図には元知事私邸が描かれています。) 明治4年から8年に城は解体され、現在は城地の大部分は県立神戸高校敷地となっています。

 

 

 

愛宕の歴史 【1】愛宕地区の移り変わり 1-2 江戸時代 1-2-3 江島村小笠原領

1-2-3 江戸時代 江島村小笠原領  小笠原氏は、河曲郡江島村・柳村、奄芸郡木鎌村に2,500石、常陸国に2,000石、総計4,500石の旗本でした。江島村に陣屋を構えていました。  文化元年「小笠原領地図」には紀州領との境界が描かれています。愛宕山・地蔵堂・富士山・若宮社の地名が読み取れます。

 

愛宕の歴史 【1】愛宕地区の移り変わり 1-3 伊勢街道 1-3-1 現在も使われている伊勢街道 

1-3-1  現在も使われている伊勢街道
伊勢路見取絵図第3巻」文化3年(1806)には、四日市日永~神戸~白子~津に至る江戸時代の伊勢街道が描かれています。写真絵図は、江島村の部分です。伊勢街道は江戸幕府が整備した脇街道で、日永の追分から東海道と別れ伊勢に至る街道です。江戸時代は東海道に次いで交通量が多く、賑やかな街道だったようです。江戸時代の街道ルートが現在も生活道路として使われています。 大正9年伊勢街道は道路法では国道1号とされ、昭和27年に国道23号と改定されました。

 

愛宕の歴史 【1】愛宕地区の移り変わり 1-3 伊勢街道 1-3-2 古い面影を残す街並み

1-3-2 伊勢街道の街並み《古い面影を残す家》  旧伊勢街道の江島~白子~寺家には、古い面影を残す家が多く見られます。格子のある伝統的な家構え、格子・そで壁・幕板・虫こ窓など町屋建築の風情を感じさせる伝統家屋が残っています。江島・白子・寺家の家並みは、平入り屋根と切子格子(親2本 子2本)が特徴です。