愛宕の歴史

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江島地内の史跡位置確認調査

三重県鈴鹿市江島地内の江戸~明治初期の史跡跡の位置確認調査を行いました。江戸時代は現在の江島の大部分は、旗本小笠原候の領地でした。以前に他地区の歴史グループが作成した白子の歴史マップは、地図に表示されている史跡位置に誤りが多々あり、「愛宕の歴史」を編集するため正確な位置確認調査を行いました。古くから住んでいる地域の人からの聞き取りも行いました。⑦の場所については、戦後しばらく駐在所が置かれていたとの新しい情報も得られました。 ①紀州藩・小笠原領境界の榎(えのき)、②大宝殿社跡、③小笠原領主菩提寺雲心院、④江島陣屋跡、⑤小笠原領の屯所跡、⑥治安裁判所・登記所・法務局跡、➆明治初期の警察署・税務署跡 (令和3年4月23日 愛宕公民館)

愛宕の歴史 【 目 次 】

愛宕の歴史 【目次】 企画:愛宕地域づくり協議会 編集:鈴鹿市立愛宕公民館
1 愛宕地区の移り変わり
     1-1 古代~中世 1-2 江戸時代 1-3 伊勢街道 1-4 戦後の愛宕地区 1-5 愛宕地区の区画整理
2 愛宕小学校と周辺地域の公共施設
   2-1 愛宕小学校  2-2 三重県農業試験場  2-3 鈴鹿市立体育館  2-4 愛宕公民館
3 鈴鹿海軍航空基地
4 愛宕地域の祭礼・伝統行事
    4-1 江島神社  4-2 春日神社 4-3 地蔵堂 4-4 菅原社  4-5 愛宕神社
5 産業・交通
    5-1 白江野用水  5-2 伊勢型紙  5-3 昔の田植え 5-4 近鉄
6   昭和天皇の鈴鹿市行幸
7 懐かしい写真
* 参考文献・資料
  問い合わせ:鈴鹿市立愛宕公民館 電話059-388-5909 
   ≪ホームページ画像の無断転載・頒布を禁じます。≫
  <制作:令和3年2月>

 

愛宕の歴史 【1】愛宕地区の移り変わり 1-1 古代~中世 

【1】愛宕地区の移り変わり 1-1 古代~中世 

岸岡町の南に続く丘陵地は、旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代、そして中世城跡を含む複合遺跡となっています。古墳、古窯、集落跡など確認されています。海岸近くは弥生時代の遺跡が分布しています。かつて岸岡山を中心に50基ほどの古墳群があったとされていますが、現在は現存22基、消滅18基(1号墳は調査の結果、古墳でなかったため欠番)となっています。

愛宕2号墳から銅鏡「七鈴鏡」がしました。径11.8㎝。鈴鏡(れいきょう)は古墳時代後期に製造された銅鏡で、7個のうち4個が欠損し3個が付設しています。振ると良い音がします。 25号墳・27号墳では家形埴輪が出土しています。平成9年の公園管理用道路建設のための調査では、弥生後期の竪穴住居跡33棟が発掘されています。

 中世城址の岸岡城跡は、古墳を利用して作られており、城主佐藤中務は神戸氏の配下で高岡城主の山路弾正とともに神戸六奉行の一人でした。

愛宕の歴史 【1】愛宕地区の移り変わり 1-2 江戸時代 1-2-1 大名の領地

1-2-1 江戸時代 大名の領地 (伊勢国絵図)
江戸時代の大名の領地は、幕府が公称していたのは「領分」で、「藩」の呼称は明治時代から使われました。
玉垣村、肥田村、土師村は津領、矢橋村は神戸領、柳村は旗本保田(やすだ)領と一部神戸領、岸岡村は亀山領と一部旗本保田領、江島村は旗本小笠原領(柳村の一部)と距離に関係なく支配が入り組んでいました。

 

愛宕の歴史 【1】愛宕地域の移り変わり 1-2 江戸時代 1-2-2 幕末・明治初期の神戸城

1-2 江戸時代  1-2-2 幕末の神戸城  <元神戸藩城地ノ図(三重県所蔵)>

小藩である神戸藩は、本田忠統が入部した江戸中期享保17年(1732)には町屋戸数582軒・人口2,520人、武家屋敷40軒余武士150人余の小さな城下町でした。  (参考:「三重県史通史編近世2」 p.127)  明治2年(1869)6月藩籍奉還により、神戸藩主は知藩事に任命され、神戸城内に神戸藩庁が開設されました。明治4年(1871)7月廃藩置県により神戸藩は神戸県となり知藩事は免職となり、旧知事は9月東京へ移住しました。明治4年11月神戸県は廃され、安濃津県に統合され、明治5年三重県に改称されました。明治9年渡会県と合併して現在の三重県となりました。(参考:「鈴鹿市史3巻」p.36 「三重県史資料編近代1」p.118 )   絵図「元神戸藩城地ノ図」には建物玄関先に旧字で「県庁」の文字が書かれています。元知事私邸はこの建物奥(北側)にありました。明治4年11月渡会県に合併されるまでの4か月間神戸県庁が城内二の丸に置かれていたときの図です。元知事私邸が撤去されているため、知事が去った後の明治4年の神戸城図と思われます。(鈴鹿市史3巻p.38の図には元知事私邸が描かれています。) 明治4年から8年に城は解体され、現在は城地の大部分は県立神戸高校敷地となっています。