愛宕地域の歴史を調べています②

愛宕地域の歴史を調べる過程で収集した写真の一部を掲載していきます。懐かしい写真や資料をお持ちの方は、収集に御協力をお願いいたします。写真、資料、書籍などはスキャナーでデータとして読み取り、原本は返却いたします。愛宕公民館(℡ 059-388-5909 三重県鈴鹿市東江島町21-6)は5月末まで公民館事業・サークル活動などは休止しますが、公民館職員は出勤していますので、窓口業務は通常通りです。電話での対応も行います。来館時はマスクの着用をお願いします。掲載写真は主として公民館休館前に収集したものです。

<1>「北の端の地蔵堂」江戸時代の文化元年(江戸後期1804)の江島村小笠原領地図(白子郷土史前編所収)には江島神社北側の「須原」に地蔵堂の記載があり、地蔵堂に掲げられた六体地蔵菩薩縁起には明治23年に現在の地に移り、昭和7年現在の御堂に再建されたとあります。次の写真5は昭和21年の地蔵盆、写真6は令和元年8月25日柴燈護摩です。

IMG_0026文化元年1804 (2)IMG_0019IMG_0015-2 - コピー (2)6丁目地蔵盆昭和21年8月24・25日 - コピーDSCN0895

 

 

愛宕地域の歴史を調べています①

愛宕地域づくり協議会文化部では、愛宕地域の歴史を整理・記録する準備を進めています。愛宕地域内の懐かしい写真、古い資料などお持ちの方は、ご協力をお願いいたします。写真、資料等は愛宕公民館で収集しています。愛宕公民館までご連絡ください。(電話 愛宕公民館 059-388-5909)  【収集した写真の例①】 写真1:江島神社旧本殿 写真2:夏越(なご)しの大祓い・茅の輪(ちのわ)くぐり 

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菅原社境内に残る軍事施設跡

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菅原社(三重県鈴鹿市岸岡町)境内には、地元の人たちが防空壕跡と言っている軍事施設跡と思われる「くぼみ」が2か所残っています。3月31日地域の集会所に愛宕公民館長・自治会長とともに、地元の80代の6人に集まっていただき、聞き取り調査しました。6人の方々の子ども時代に目撃した横穴の位置は、戦後70数年たち記憶はあいまいになっていました。横穴入口が何か所かあったのは事実で皆さんの記憶に残っていましたが、具体的にどの場所か、何か所あったのか? 海軍の燃料や弾薬を貯蔵する隧道だったする文献もあります。5月中旬にくぼみ2か所の一部を発掘調査し、隧道跡が確認できるかどうか調査します。愛宕地域の歴史調査の一環です。  (愛宕公民館 4月18日)

 

鈴鹿市地域景観資産の登録

令和2年3月31日登録

令和2年3月31日登録

 

 

身近にある地域の景観資源は、鈴鹿らしい景観を形成する重要な要素であるため、鈴鹿市では、歴史的または文化的価値がある建築物・工作物・樹木を地域の景観資産として登録する制度があります。今回、新たに白子2丁目の店舗が1件登録され、鈴鹿市地域景観資産は23件になりました。登録建物HP⇒「建築物一覧」 登録樹木HP⇒「樹木一覧」 鈴鹿市HP⇒「鈴鹿市地域景観資産」   (愛宕港も印鑑 令和2年4月15日)

愛宕公民館学習発表会「展示発表」

令和2年2月22日・23日 第25回愛宕公民館学習発表会「展示発表」を開催しました。 展示部門26サークルが作品展示、活動状況展示、体験発表を行いました。 香道・ 茶道の会席、布あそび・ウッドバーニング・型紙・絵手紙・マナー講座・大正琴の体験には、多くの参加者がありました。  会場入口では、マスク着用・アルコール消毒液による手洗いを呼びかけ、新型コロナウイルス対策ポスターを掲示しました。参考:新型コロナウイルスQ&A⇒HP 厚生労働省  (愛宕公民館 令和2年2月23日)

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2020年2月23日 | カテゴリー :

日展東海展 <スタイロフォームと和紙で動物>

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愛知県美術館で「日展東海展」が開催されています。2月16日まで。 愛宕公民館の主催講座で、スタイロフォームと和紙を使って動物を作る講座講師の上原正廣さんの作品「つかの間の平穏」が入選出品されています。上原さんの作品コメント「一見ほほえましい光景に見えるが親は授乳中でも回りを警戒していて耳をそば立てて小さい音も動きもみおとさず聞きのがさないように緊張して子供を守っている様子を作りました。」 日展入選者HP⇒「第6回日展」 東海展 「私の作品」HP⇒日展東海展  (愛宕公民館 令和2年2月4日)

令和元年11月26日 愛宕公民館では「スタイロフォームと和紙で干支作り」を開催しました。12日に作ったスタオロフォームの型枠を、小刀でネズミの形に削りました。ネズミの形に削ったスタイロフォームに、各自の好みの色の和紙を水性ボンドで貼り付けました。 (愛宕公民館 令和元年11月26日)

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愛宕公民館主催講座「スタイロフォームと和紙で干支作り」の準備を始めました。制作日時:令和元年11月26日 場所:愛宕公民館ホール 講師:上原正廣さん(日展作家)。 来年の干支「ねずみ」を作ります。型紙から干支「ねずみ」の型枠を作りました。   It will be the mouse year next year. (愛宕公民館 令和元年11月12日)

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2020年2月4日 | カテゴリー :

愛宕公民館乳幼児教室④

令和2年1月24日 第4回愛宕公民館乳幼児教室を開催しました。地域の民生委員さんの協力を得て、13人の幼児とお母さんが一緒になり、歌、遊戯、パネルシアター、節分に合わせたボール遊びなど楽しい時間を過ごしました。 (愛宕公民館 令和2年1月24日)

 

戦争遺跡「海軍伊賀上野航空基地 掩体壕」

 

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三重県伊賀市には、かつて海軍航空基地がありました。滑走路跡は、戦後、緑ケ丘中学校・上野東小学校・工場などになり、現在では伊賀国分寺周辺に土製掩体の一部が残るだけです。昭和22年の米軍空中写真には、滑走路跡、誘導路跡、掩体壕跡が撮影されています。緑ケ丘中学校グラウンドが滑走路の横幅になるので、滑走路の幅の広さがよく分かります。鈴鹿海軍航空基地の避難地にされたと考えられます。掩体壕は、伊賀国分寺の四方を囲む南側土塁に沿って2か所現存しています。掩体壕Aは前半部が削られていますが、壕幅は概測27mほどあるので海軍一式陸上攻撃機(全幅24.88m)が収容できる大きさです。掩体壕Bは、壕土塁は形状をよく留めていますが中心部は池となっています。米軍撮影空中写真の<赤印>が現存掩体壕跡。かつて鈴鹿海軍航空基地につくられた掩体壕は現存していないため、この伊賀市に残存する掩体壕から類推できます。また、三重県鈴鹿市に残る陸軍飛行場掩体壕との形状の違いがよく分かります。  (愛宕公民館 令和2年1月10日)

伊賀国分寺跡の伽藍

国史跡「伊勢国分寺跡」(三重県鈴鹿市国分町)の保存整備が完了したことにあわせ、同じ三重県内に残る国史跡「伊賀国分寺跡」と比較するため、名阪自動車道に接して存在する現地を訪問確認しました。国史跡「伊賀国分寺跡」(三重県伊賀市西明寺字長者屋敷)は、奈良時代に建てられた国分寺の跡で、東西約220m、南北約240mの規模の土塁状の遺構に四方を囲まれています。中門、金堂、講堂が南北に並んで建てられ、基壇跡がわずかな高まりとして残存しています。中門と金堂を結ぶ回廊や講堂の背後には僧房と考えられる建物跡が判明しています。塔跡と思われる基壇の中心穴は心柱(しんばしら)礎石跡と思われます。 伊賀国分寺跡の東側には、国分尼寺と推定できる長楽山廃寺跡(国史跡)があります。尼寺跡にも、金堂、講堂と想定される基壇跡や築地跡と見られる土塁があるとのことですが、草木で覆われ中に入れませんでした。参考1:三重県教育委員会「三重県の文化財」p.291、p.292  参考2:国分寺跡伽藍⇒HP「伊賀市教育委員会 伊賀国分寺跡  (愛宕公民館 令和2年1月10日) 

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